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「歴史における流れ」について~教科書を読み解くということ~

「こうしたなかで10世紀以降、現世利益を追求する既存の仏教とは異なり、浄土への往生を求めることで現世の苦しみから逃れることを説く浄土教が流行するようになった。」

 

この一節は、山川出版社の『詳説日本史研究』の109頁から引用したものである。

 

「こうしたなかで」というフレーズは、この文中では「御霊信仰」の広まりを指している。御霊信仰」とは、死後怨霊となった人が世に災いをもたらすという「祟り」を信じる信仰のことであるが、この信仰は死後の世界の存在を前提としている。

つまり、「御霊信仰」によって死後の世界の存在が貴族・庶民を問わず広まっていたことが浄土教流行の背景にあった。この一節が示しているのは、そのようなことだ。

 

 

特に印象には残らない、教科書のありふれた一節である。さらと読み流されて、それで終わるだろう。

しかし、読み流せることは流れを理解していることにはつながらない。むしろこの一節に執着を見せる人間にこそ、その道が開かれている。

なぜなら教科書の一節は、多くの情報を省いた上で書かれるからだ。

 

たとえば上の一節に対しては、ざっと以下のような疑問を挙げることが出来る。

 

①なぜ「現世の苦しみから逃れることを説く」浄土教が「10世紀に」流行することになったのか

②既存の仏教が追求した現世利益とは何か

浄土教の流行はいったいどのような形で現れたか

浄土教の流行は後世にどのような影響を与えたか

 

 

これに答えることができないのならば、その読者が真に「流れを理解している」と言うこともできないのではなかろうか。

 

 

つまり日本史、ひいては歴史学習における「流れを理解する」という言葉は、こうした一節をどれだけ詳細に語ることが出来るか、ということに外ならない。

そして「詳細に語る」という言葉が意味するのは「書かれている内容の具体化」である。

それがどのように行われるかを、先にあげた疑問に答えるという形で確かめてみる。

 

 

①を考える場合、まずここで言われている「現世の苦しみ」とは何であるかを知っておかなければならないが、それを考えるには10世紀に起きた出来事がおおよそ頭に入っている必要があるだろう。

 

 

10世紀に起きた主な出来事を挙げてみる。

 

901年 藤原時平による昌泰の変

902年 延喜の荘園整理令発布

905年 『古今和歌集』の編纂

914年 三好清行によって地方政治の混乱ぶりを示した『意見封事十二箇条』が奉上される

939年 平将門藤原純友による天慶の乱

969年 藤原実頼による安和の変

985年 源信が『往生要集』を著す

995年 藤原道長が内覧になる

 

 

このうち、「現世の苦しみ」に関連するものとして当てはまるのは太字にした二つ、つまり地方政治の腐敗と戦乱とであると考えられる。

すると、先に引用した一節は以下のように書き換えられる。

 

御霊信仰を通じて死後の世界への信仰が広まった10世紀以降には、現世利益を追求する既存の仏教とは異なり、地方政治の腐敗と戦乱によって生じた現世の苦しみから逃れ、浄土への往生を求めることを説く浄土教が流行するようになった。」

 

 

しかしこれでは、先ほどから述べているような「詳細に語る」という地点に到達できたとは到底言えない。具体化すべき内容が新たに生まれてしまっているからだ。

 

 

⑤「地方政治の腐敗」とは具体的にどのような事柄を指しているのか

⑥戦乱が天慶の乱などを指すことは分かるが、ならばそれらが庶民に与えた影響としてはどのようなものが考えられるか

 

 

たとえば⑤ならば、荘園の発生による律令制度の崩壊、それに伴う国司の暴政などをあげることができる。だがそれらを挙げたとしても、具体化が完了したとは言えない。「荘園の発生がなぜ律令制度の崩壊を招いたか」「国司の暴政の原因は何であったか。」と、疑問はとめどなく湧き出てくるからである。

 

 

さて、もういいだろう。①に答えようとしただけで、⑤、⑥のように、答えるべき問いが増えてしまった。

そして冒頭にあげた他の問い、②に答えようとすれば天台宗真言宗といった密教に関する知識が、③に答えようとすれば源信の著した『往生要集』、藤原道長・頼通親子に代表される貴族間での浄土信仰に関する知識が、④に答えようとすれば1052年に訪れる末法元年と、鎌倉新仏教の勃興に関する知識が必要になるだろう。そこでまた、新たな問いが生じてくることは想像に難くない。

 

 

真に「流れを理解する」ということは、ここまで長々と述べてきた例のような、連鎖しつづける疑問に一つずつ答えを与えながら進んでいく無限のマラソンなのだ。資料集、用語集、教科書のページを幾度もめくっては戻してを繰り返し、それでも分からないものが残り続けるのもよくあることだ。

 

 

いまあなたは、歴史を学ぶ中でいつか込み上げる嫌悪を予感している。こんなことをするくらいなら、教科書を丸暗記した方が楽だと思っている。そうかもしれないし、それならそれでもいい。

私は暗記には賛成したり反対したりする。いままで数えきれないほど多くの人々が、暗記によって歴史の試験を通ってきた。そしてこれからも多くの人々は、暗記によって歴史の試験を通るだろう。暗記が最も効率的な方法の一つであることは、実績に裏打ちされた事実である。こと受験において必要なのは結果であり、理論でも意欲でもない。もし用語を暗記することが望む結果につながるのなら、それが最善の方法なのだ。

しかしあなたは、そう思いたくないからこそ、この文章を読み続けてくれたのではないだろうか。

年号であれ人名であれ、切り取られた歴史の用語たちはそれ自体で意味を持つことはない。1052、1199、1335、1480、末法九条頼経北条時行、『樵談治要』。単なる数字と漢字の羅列でしかないこれらは、因果関係によってつなげられることで初めて意味を持つ。

ならば「流れを理解すること」は同時に、「歴史に意味を与えること」でもあるのではないだろうか。 

 

私はこの文章を、暗記を捨てた人のために、もしくは歴史を単なる暗記教科だと思いたくない人のために書いている。

覚え続けることと、意味を与え続けること。果たしてどちらがあなたにとってより楽だろうか。

歴史の受験勉強は、まずそのことを自分に問うところから始められなければならないのかもしれない。

 

 

詳説日本史研究

詳説日本史研究

 

 

文責:脚注b